アメリカの授業「みんなで会話」、日本の授業「音読を聞く」⇦なにこれ?

 

大学生になるまで「おとなしく授業を聞いて、テストで高い点数をとる人」がデキる人だと思っていた。でも、大学で急に「自主性」を求められた私は戸惑った。まわりの環境にも、なにも動けない自分にも。

そこで、もともと海外に興味があったこともあり「知り合いもなにもいない環境に身を置いて自分を成長させよう」と考えて、大学の短期留学プログラムに参加した。アメリカの大学に3週間ほどだけ。

 

アメリカの大学で起きたこと

とにかくよく話す。「先生の話さえも遮る人」にびっくり

留学あるあるだけれど、なにかと日本人はサウジアラビア人と縁がある。授業も一緒になることが多いし、なぜか仲良くなりやすい。私が入ったクラスは、日本人3人、中国人1人、サウジアラビア人3人だったと記憶している。

初めての授業で席につくと、先生が話し始めた。(実際「Teacher」とか呼ばないから、日本よりも生徒と隔たりがないフランクな関係に感じられた。ここでは登場人物の区別がつきやすいように「先生」と書くことにする)

「今日はこういうことを話そうと思うの。みんな〇〇と聞いてなにを連想する?」とか言うと、話が終わらないうちにどんどんサウジアラビア人が思いつく限りの単語を話す。

彼らの発言は、日本の授業でいうところの「自信があるから発言する」とか「正解だからいう」とかではなく、対話的な意味での「発言」だと感じた。

でも、その時は「なんで?先生が話してるのに遮っちゃったら失礼だよ!」ととにかくびっくりした。なんなら「サウジアラビア人って無礼なのかなぁ」とさえ思っていた。

筆記の正確さなんて二の次!話すことがなにより大切

でも、先生はムッとすることなく、彼らから発せられる単語に「そうね」「そういう考えもあるわね」と相槌を打っていく。日本人にも「みんなはどう?」と聞いてくるので、恐る恐るつたない英語で話した。

その時も先生は「それもあるわね」と、すんなり受け入れてくれた。受け入れられただけで、自分自身を認められたようでとても嬉しかった。「あれ?緊張してたのに楽しいぞ?」と思えてきた。

そして、授業は基本的にノートをとることや板書があまりなかったと記憶している。話せること、意見をだすこと、意見が同じなら褒めて認め合い、違うなら徹底的に議論することが重視された。

一度だけ、クラスメイトを2チームに分けて「Population」などとその場で言われた単語のスペルを黒板に速書きするゲームをしたことがある。日本人は圧倒的に書けた。日本人同士の場合は、正誤とかではなくただのスピード競いだった。

サウジアラビア人は、わたしたちよりはるかに英語がペラペラなのに、中学生の頃に習った単語も書けない。「Information」とかも怪しい。でも、話せる。日本人は全然話せないのに単語は完璧。ゲームでは圧勝だったけれど、なんだか虚しかった。

アウトプットの機会だらけ。「考える」し「上達する」

そんなこんなで、いつの間にか授業は「発言する」ことが当たり前であり、楽しいものだと思えるようになった。

 

授業のなかで「銃社会をどう思うか?」というテーマで話し合ったことがある。となりのサウジアリビア人のエリー(男)に、私は堂々と「銃は危険だから反対だ」と伝えた。なにも間違っていない意見だと、当たり前に思っていた。

そうしたら「なんで?じゃああなたはなにかあったときに自分をどう守るの?」と聞かれた。「日本は安全だから銃とか必要ないよ」みたいなことを言った気がするけど、自分の考えがそれ以上無いことにも気づいたし、それを英語でどう言うのかわからなかったから、焦っていた。

エリーは「でもさ、刃物を持った男が目の前にいたらどうするの?あなたのうしろには大切な家族がいるんだよ?それでも銃をつかわないの?すぐ近くに銃があっても、あなたの大切な人を守らないの?」とバンバン質問する。

正直、「たしかにそこに銃があったら使うのかもしれない」と思った。私はどうにかもともとの意見を曲げずに反論してみたけれど、なにひとつ説得させられなかった。

 

日本では「銃社会はこういうもので、こういうことが懸念点としてあげられています。アメリカの一部では銃を廃止したところがあり〜」というようにしか教えられない。でも、アウトプットする機会があることで、まったく考えたことがなかった議論が生まれて、強制的に「考える場」に立ち会わなければならない。そして、それを伝えようと努力もする。

日本に帰ってきて感じたこと

講義がつまらない!先生も学生も「いない存在」なのに教室に集まる意味ある?

留学でかなり自発的な行動や考えができるようになった私は、日本の大学生活に戻ったものの、違和感がすごかった。「みんなそこにいるのに、まるでだれもいない」みたいな状況が堪えがたかった。

 

なにこれ?レジュメの音読してるだけじゃん!教授もわたしたちも、資料をメールで送信して各々が自主学習すればすむことだよね?授業ってなんなの?教授にも、目の前に座るわたしたちが見えてないみたい。つまんない!

…と、心の中はかなり動揺していた。でも、違和感は抱えながらも、そこで発言するとか質問を積極的にするとかいう行動はしなかった。結局、また変な自意識を取り戻したのかもしれない。

 

 

今回話題になったツイートは、まさにここで行動した人。

私にはそれができなかった。あの独特のしらけた空気が染み付いたまま高校生まで何の迷いもなく進んできたから、自分が発言をしたあとの状況が目に見えてできなかった。

でも、日本の授業は異質だと思う。存在や個性、多様性を認めてくれるような環境じゃない。

発言すること、議論すること、それによって考えるという経験は、座って授業を長々と受けるよりも格段に「成長」できるはずなのに、ほとんどそういう機会がない。ブログを書くこともアウトプット。知識をつけるだけじゃ成長しない、発信しないとなにも進まない、ということと同じ。

たしかに先生は、がんばらなくても給料がかわらないなら楽なほうがいい。でも、これでまた「考えない」人が量産されて、急に就活で「個性」「独自性」「あなただけの考え」を求められて戸惑う人が続出してしまう。「今の若者は意志がない」と頭を抱える世代がいるけれど、その世代の先生ががんばらずにロボットみたいに授業をして、ロボットみたいな生徒と無の時間を共有していたから、当たり前の結果だと思う。

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